沖浦和光『竹の民俗誌』

竹の民俗誌―日本文化の深層を探る (岩波新書)

竹の民俗誌―日本文化の深層を探る (岩波新書)

日本の農村において、竹は藁とともに生活財を作ってきた。もうひとつ鉄という重要な素材があるが、なにかと言及されるタタラ製鉄などと違って、竹細工についてはあまり触れられることが無い。

昔は、農家の娘などは旅先できれいな草履が編めれば、日本中を無賃で旅することができたと言われるように、藁細工は農家の仕事であったが、竹細工は農家が片手間でできるような簡単なものではなかった。被差別部落民やサンカなどの職業だったのだ。

技能が必要で、手間はかかるが、製鉄のような特別な道具もいらず、安く手に入る材料であったので、竹細工は土地を持たない零細民が主な担い手だったというわけなのだが、丁寧に歴史をおっていくと、貧困故に飛びついたとも言えないような事情があるようで、本書はそれを『竹取物語』の読解まで行って、丹念に例証している。つまり、隼人や熊襲といった、天孫系ではない先住民たちの文化と深く関わっているのではないかと言うのだ。

竹が日本に自生していたかどうかは、よくわかっていない。明らかに江戸期にやってきた外来種の孟宗竹は除くとして、真竹など他の種はいつ頃から日本の農村に現われるようになったのか不明な点が多い。著者は、九州には自生していたのではないかという説をとっている。

しかし、九州に自生していたとしても、その他の地域は移植されたのは確かのようだ。どのような経緯で、誰によって、どういった技術とともに竹が日本全土に植林されていったのか、農家と稲や、木地屋と杉以上によくわかっていないようでもある。

部落産業であったために、部落解放以降、竹細工は急速に姿を消すことになった。跡を継ぎたくないと思う気持は当然だろう。日本の社会は、江戸以降、特殊な技術を持つ人々を被差別民として社会の片隅に追いやってきた。そして明治以降は、解放の名のもとに技術を放棄してきた。絶えてしまった伝統技術は多い。

果たして、最初から何も無かったかのように忘れることが差別をなくすことになり、社会をよくすることになるのか。そんなことも考えさせられる一冊である。