三浦雅士『身体の零度』

身体の零度 (講談社選書メチエ)

身体の零度 (講談社選書メチエ)

どこかで聞いたような話がたくさん載っていて、オリジナルな要素が少ないと言われがちの本で、あまりにも整然と整理されすぎているのではないかなどと指摘されることも多いのだが、これほどの近代の身体を巡る問題点を見事に交通整理している本はないだろう。

話の骨格は、ルイス・マンフォードとミシェル・フーコーに乗っかっており、三浦さんのオリジナルは、それらをダンスという視点から眺めたことであるが、しかし、ダンスの枠の中だけにとどまることなく、近代の身体を持つすべての人、つまり我々全員の問題として、ダンスから突破しているのがすばらしい。

もっとも、後半もかなり後半になるまで、ダンスの話はでてこないし、だいたいは、近代産業社会における軍人=労働者の身体形成のことなのだが、しかし、それにしても、整理の仕方が見事としか言いようがない。

「身体の零度」とは、近代が目指した身体が持つ、理想の状態のことである。つまり、あらゆる「野蛮」な身体加工を排し、「自然」な発達、発育によって形成される身体を「零度の身体」と近代は位置づけているということである。そして、その「零度の身体」はありもしないイデオロギッシュなイデアにすぎないことも同時に指摘している。「自然」とは人工的な「自然」である、ということだ。

「自然」が、清潔、奇形、障害などの問題構成を生み出すのは間違いがない。

「十九世紀の後進国のなかで、近代化を何よりもまず身体の問題として把握し、近代化を達成するために率先して、顔の表情を変え、身体の動作を変えたのは、ただ日本だけであったと、誇ることさえできるかもしれない」

むしろ、われわれの社会も、いまだ身体の問題としてあり続けているのだ。