吉見俊哉『親米と反米』

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

日本の近代史をアメリカとの関係性から論じた本であるが、核となるのはジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』で、その前後を補完したという内容になっている。

ダワーの主張は、現在の日本の政治体制は、戦前からの官僚機構と占領軍の統治制作の融合から成り立っているという内容で、ダワーはそれをスキャッパニーズと呼んでいる。ダワーの指摘は、日本史の研究者にとってはあまり歓迎されなかったが、広く戦後社会を見直す契機になったのは確かだろう。

ダワーの主張の弱いところは、(当たり前だが)戦前の日本社会がいかに形成されたかについて議論が少ないこと、もうひとつは文化的な事象について、補足的に触れるのみで、そこから議論を広げていかないことだろう。そこで、おそらく本書では文化的な面から戦後社会への切り込みをはかり、同時に、戦前にまで範囲を広げることによって、ダワーの議論ではア・プリオリとされたと言ってもいい戦前から引き継がれた要素もまた、戦後の占領軍がもたらしたもの同様、諸外国からもたらされたり、日本で醸成されたものであることを示したものと思われる。

というのも、ダワーの議論は、戦前からのつながりを強調しているように見えて、戦前の要素と、占領期の要素に二分してしまうことによって、かえって戦前と戦後を再分割してしまうおそれがある。これは、戦前とのつながりを主張する全ての歴史学者に言えることなのだが、戦前と戦後が50パーセントずつ(あるいは比率は違うとしても)、カクテルのように混ぜ合わされたというイメージは全く良くない。

日本の近代は、常に外国から何かが移入される一方で、内部において近代的な原理で醸成してきた社会なのだ。革靴も下駄も、どちらも全く近代的な所産であり、革靴からスニーカーが生まれ日本にもたらされたように、草履からビーチサンダルが生まれ、逆に世界へ送り出すことになったのは、常にそういう作用が起こっているということの卑近な例である。

本書では、戦前においてアメリカが民主主義の模範とされたことや、同時に堕落の象徴ともされたことや、また、消費文化の川上としてすでに認識されていたことにきちんと触れる形で戦後とのつながりを説いている。なんとか戦前と戦後の構造的なつながりを導こうとしていることがわかる。

ただ、この枠組みからすると、日本は、常にアメリカだけを見ることによって、(アンチ)ナショナリズムを形成してきたということになってしまわないか。特に戦後占領期以降については、世間的にもそういわれているわけであり、それをなぞる形で議論を進めるのはどうであろうか。

戦後の日本は、アメリカ以外も見たし(フランスびいきのような)、ナショナリズムに寄りかからないで自己を形作ったこともあるのではないだろうか。そういったことは無視してもいい少数派であるとすることも可能だろうし、いや、そういったことも深く見ていけばアメリカや日本らしさにたどり着くのだと言ってしまうことも可能ではある。しかし、そういった全ては釈迦の手の上で的な落としどころはどうであろうか。