榧野八束『近代日本のデザイン文化史』

近代日本のデザイン文化史 1868‐1926

近代日本のデザイン文化史 1868‐1926


「デザイン」と銘打っているが、デザイナーの名前はほとんど出てこない。むしろ「メディア文化史」とでも言った方が分かりやすいのかもしれない。しかし、やはり「デザイン」とした方が、良さそうである。なぜなら、日本人がいかにして新しいものを手に入れ、生活を変えたのか、という視点だけでなく、それよりもむしろ、日本人がいかにして物に形を与えたのかということに関心がむいているからである。

それゆえに、話は昭和の初めで終わっている。日宣美もインダストリアルデザイナーたちもまだ出てこない。おそらく、彼らが「デザイナー」として活躍できたのは、物の形がある程度、固定化したからであろう。物がどうあるべきかの輪郭がしっかり定まって、はじめて彼らは活躍し、きっちりと詰めるべきところを詰めたのだ。

あるいは、ピアノの形が定まって、はじめてピアニストが活躍できたことに似ているのかもしれない。それがちょっと違うのであれば、いくらストラディバリウスが名器でも、バイオリンの形が決まっていなければできなかった、ということと似ているのかもしれない。いずれにせよ、無名の人たちの試行錯誤の上に、大きなルールが形成されたことに着目し、それを「デザイン」と考えることには大きな意味があろう。

この本には、大きく二つの視点がある。一つには、未知の物がいかにして形を変えて生活の場にこっそりと入り込み、生活そのものを変えてしまったか。もうひとつは、開化直後のぎくしゃくした視覚伝達の方法がどのように洗練されていったかだ。

前者においてはガラスや鉄といった新しい素材が、量的な塊として現れ度肝を抜いた後に、ランプやらアイロンやらおもちゃやら箱やら瓶やらといった具体的な小さなものとして、生活の中に浸透していった様を描いている。

後者においては、パッケージやポスターにおける、漢字と横書きと絵の関係性が、次第に統合されていった様を描いている。

デザイン好きは、美しくないものが並ぶのに興ざめするかもしれない。メディア論者は、微に入りすぎる議論にやきもきするかもしれない。しかしもしそう思うのであれば、それはその人たちの視野が狭いからであろう。こうやって具体的に丹念に解きほぐすことこそが、一番大事な作業なのだ、ということの見本のような本である。